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第2則 元三菱地所福澤武社長(1)本則・機縁

(本則) 

元社長曰く、私が人生で一番嬉しかったことは、三菱地所に入社し、晴れて社会人と
して独り立ちできたことだ。
11歳から23歳までは、結核を患い何度も生死の間をさまよった。

就職活動の頃は、28歳になっていた。16歳の春、療養の先輩患者から、「親に迷
惑をかけているなんて気に病むな。
病気を治すことだけ考えろ。エゴイストになれ」と諭された。

(機縁) 

入社式で社長から、「こんな大量採用は地所はじまって以来でうれしい。しかし、当分、
キミたちにやってもらう仕事はないんだ」。入社式が終わると、総務部文書係へ配属
となった。

最初の1週間は三菱グループの歴史を記した「三菱小史」を読むだけ。
文書係は取締役会の準備や経営陣向けの資料作成が仕事である。
面倒な不文律に悩まされた。
例えば、公式文書を書くときは万年筆やボールペンで書くことは禁止、つけペンで書くこと、というので
ある。

研修中、初対面の同僚から「あなた、福澤諭吉のひ孫なんだってね」と聞かれたとき
は驚いた。

大学時代は、そんな話を知らないクラスメートがいたくらいだった。その同僚が、何
故知っていたかは分からないが、会社という組織は、理屈や道理だけでは動いていないように
思えた。

4年目に異動した調度部で身にしみた。「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」の
屁理屈ばかりの上司、労働組合の先鋭分子にも悩まされた。
それでも、仕事は何でも刺激的で楽しかった。

37歳の春、人事部から呼び出され、「1年間どこでもよいから海外へ行って来い」
ということで行き先はアメリカに決めた。
留学前に見合いし、即断即決で結婚した。

ニューヨークはでは、たった一人の駐在員だった。オイルショック後の米国経済は、
ガタガタだった。
ビジネス・オンリーの街はいつしか活気を失ってゆくのではないか、と週末はゴースト
タウンと化す丸の内の街並みが頭をよぎった。
赴任から3年半後、帰国した。

帰国後、営業部の中間管理職として働いている頃、「おかしいな」と首をひねること
が多かった。

例えば、テナントの1業種1店の原則だ。営業部長として、バブル経済時代の最前線
にたつと、「転貸」と呼ぶ商売に翻弄された。
金融機関の総量規制のスタートからバブル崩壊、丸ビルの老朽化、等から減収減益に陥った。
当時は、営業統括の専務でビル営業の陣頭指揮をとっていた。

第2則 元三菱地所福澤武社長 2に続く
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