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老後が寂しくならない生き方

覚悟が決まる、すなわち、命には終期があるということを悟った人は、老後の生活が寂しくありません。毎日の生活が。充実しているので、つまらないことを考える必要がなくなるからです。例えば、死刑囚が人間として立派な最後を全うする人がいるといわれていますが、それは人間とは何かを考えたからでしょう。

悩みは、目の前のしなければならないことに集中出来ていない時に、後から後から湧いて出て来ます。その悩みを突きつめて考え抜けば、一冊や二冊の哲学書くらいは書けるでしょうが、我々凡人はそうは行きません。
覚悟を決めるということは、何時かは自分の命が終わる、のを知った上で、日常生活を送るということです。だったら、自分はいくつまで生きる、すなわち自分の死期は何才である、ということを決めることです。そして、その死期までに自分は何をするかを決めることです。

聖書には次のように書かれています(ルカによる福音書第12章第1節~21節)
(イエスは)「一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである』
それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

命は神が取り上げるものである、と聖書は訓えるのですが、われわれ人間が自分の命の終期を決めても罰は当たらないでしょう。命を取り上げるかどうかは、神様の領分ですから。
自分の命の終期を決めたならば、その終期までにすることを計画するのです。もちろん計画などという机上の空論を考える必要がいらない人はそれでいいのです。
「老後の寂しさ」、などに付き合っている遑は有りません。一度お試し下さい。
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