しかし、資本主義社会に生きている以上、お金と無縁で生きてゆくわけには行きません。
筆者が子供の頃、つまり昭和30年代(1950年代中頃)には、泳ぎ、野球、相撲、その他のスポーツ、遊び、例えばベーゴマ、竹トンボ作り、凧揚げと凧を作ること等々は無償で覚えました。
それが、時代の変遷に連れ、お金を出さなければ覚えられない時代になった、すなわち、授業料を支払って習わなければ子供、特に都会の子供達は覚えられない時代になったのです。
虫取り、花火遊び等々、子供の遊びは、無償で習い覚えるものがなくなったと言っても過言ではありません。
資本主義経済が日本の隅々にまで浸透して来たと言っても良いでしょう。
それにつれて日本の経済成長も始まったのです。
そのことを嘆いているのではありません。
現今の社会が、金銭の多寡によって何事も評価するようになってきているのではないか、それは必ずしも、人を幸福にするものではない、と危惧するからです。
金銭では買えないものがあるからです。
筆者は、雪のため乗り合わせた新幹線が関ヶ原で一晩中立ち往生し、車内に閉じ込められた経験があります。
その時、車内販売のワゴン車には固形の食べ物も飲み物もすっからかんになっていたので、いくらお金を持っていても口に入れ、腹を満たすものは何もありません。
この時ほど、お金があっても、その価値がないこと(つまり食べ物等と交換できないこと)に気がつかされたことはなかったのです。欲しいものと交換できなければ、お金は只の紙にしかすぎません。
その時悟ったことは、お金は自分の遣いたい時に遣い、買いたいものに遣えば良い、ということです。
贅沢と言われようと、吝嗇と言われようと、立派な心がけだと言われようと、他人の評価を気にして、自分のお金の遣い方をあれこれすることはないのです。
お金の遣い方は、布施の精神で行くのが良い、つまり「貪ってはいけない」というのが禅の訓えです。
己の心の赴くままに、遣ったり遣わなかったりすれば良いだけのことです。
そうすると、自ずと、カネに使われるのではなく、カネを使うことができるようになるのではないでしょうか。
しかし、このことは、収入を得られるようになった中高年以上の人のカネの使い方です。
まず、若い時には、自己投資をしなければならない、とよく言われますが、将来のための勉強にお金を惜しんではならないのは、当然のことです。自分を磨かなければ、社会に有用な人物になれないからです。
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