直ぐに五十万円を返したり、また三十万円借りたりしているうちに利息が増えていき、総額で五百万円にもなり、大鰐虎吉さんはまとめて請求されてしまいました。
この時点で、ようやく小口悦男さんは、事の重大さに気がつき幸田朗弁護士事務所に相談に行きました。
「幸田先生、何とかなりませんか」と小口悦男さんは早くも半ベソをかいています。
イソ弁の左右田先生は、また、難しい話だなあと思って、聞いていました。
幸田先生は、「ところで、小口悦男さん。幾らまで返せるのですか?」と聞きました。
すると小口悦男さんは恥ずかしそうに、「今はあまり余裕が無くて……百五十万円ほどなら払えます」といいました。
左右田弁護士が“約三分の一か、なら、俺でもなんとかできるかもな“と思ったのを知ったのか、幸田先生が「分かった。何とかしましょう。おい左右田君、君、この案件担当してくれ」と言われた左右田先生、まずは受任したことを大鰐虎吉さんに内容証明書で送付しました。
すると二日後、大鰐虎吉さんから電話がありました。
「大鰐虎吉ですが、おたくがこの件の代理人になったんだな」
左右田先生が、「そうです。つきましては、出来るだけの支払いをさせていただきたいと小口悦男さんが申しておりますので、大鰐虎吉さんの都合のいい日にこちらから伺わせていただきたいのですが……」と、丁寧な対応をしました。
そのあと、幸田先生は、「おい左右田君、君、ニ、三日のうちに百五十万円を持って行って大鰐虎吉さんと話を付けて来てくれ」
と淡々と言いました。
分かりましたと言った左右田先生でしたが、経験の少ない左右田先生は、弱冠、不安を覚えたものでした。
さて、翌日、左右田先生は、幸田先生が別件で出かけている最中、大鰐虎吉さんの事務所に出向くことになりました。
場所は浅草。
浅草寺から少し離れた場所にあるその事務所は三階建てのビルで大鰐虎吉さん所有のビルでした。
要塞のようながっしりとした、少しくらい銃弾を撃ち込まれてもびくともしないようなビルです。
玄関でチャイムを鳴らすと、若い人がどうぞと奥の部屋に案内してくれました。
ドアを開けると奥に赤い顔をした大鰐虎吉さんが座り、周りに身体のゴツイ男たちがいて、あっという間に左右田先生を取り囲みました。
名刺を渡す手が震えていたようだったのは仕方がありませんが、いつの間にか、左右田先生は黒革の応接椅子に座らせられていました。
この時点でようやく“しまった失敗した”と思いましたが、後の祭りです。
現在では尚更そうなのですが、こういう交渉場所には決して一人では出向いてはいけないのです。
これは弁護士の鉄則です。
大鰐虎吉さんは、「ところで先生、金はどれだけ持って来たんだい?」と、タバコの煙を吐きながら言いました。
左右田先生は、内心ビビりながらも、「百五十万円用意しました。これで今回は収めてもらえませんか?」と言い、机の上に紙袋を置きました。
するとそれを横目で見ながら大鰐虎吉さんは、「ふざけんじゃねえぞ先生!これじゃあ半分も無いじゃないか!納得できる訳けねえだろが!」と左右田先生を怒鳴り付けます。
周りの男たちも「舐めやがって」とか「ふざけるな」とか口々に左右田先生に向かって責め立てます。
大鰐虎吉さんは、
「左右田先生、あんた、月夜の晩だけじゃあないすよ。先生だって、かわいい奥さんや子供がいるんでしょう?」
とまでいってきます。ところがそれを聞いた左右田先生、
「あ、いや、私は独身で、奥さんも子供もいないんです・・・」
と、蚊の鳴くような声でに言いました。
すると次の瞬間、ぶっと、大鰐虎吉さんが噴き出しました。周りの男たちもゲラゲラと笑い転げています。左右田先生は何が何だか分かりません。
「いやあ、参ったよ、左右田先生。あんた憎めないね」
と、大鰐虎吉さん。そして、
「分かったよ。今回は俺たちの負けだ。その百五十万円で手を打つよ」
その言葉に左右田先生はまた驚きましたが、向こうが納得したのですから結構なことです。
慌てて事務手続きを済ますと、大鰐虎吉さんの事務所を飛び出しました。
事務所に帰った左右田先生は、一人で行った事を幸田先生に怒られましたが、なぜ、交渉が上手くいったのが分かりません。
恐る恐る幸田先生に聞いてみました。
今度は幸田先生がふきだしました。
すると幸田先生は、「そんなことも分からんのか。あのなあ交渉中に、脅かす方が笑いだしたら、その交渉は勝てないよ。そういうもんだ。脅しにならんだろうが。お前さんは正直に嫁や子供がいないと言ったつもりだろうが、それが奴らには可笑しかったんだろうな。向こう側が笑いだしたところで勝負あり、だ。でもこれがいつも通じるかどうかは分からないぞ。今回は運が良かったな」
そういって、優しそうな笑みを浮かべました。
30年後のことです。
左右田弁護士は、ある大会社の顧問をしていました。
その会社の総務部長が困って、相談にやってきました。
「左右田先生、今うちの会社は、物流拠点を作ろうとして、郊外の土地を買おうとしているのですが、売主側とわが社との間に入っている仲介業者が何社かあって、そのうちの一社がどうも企業舎弟らしく、ふっ掛けられて困っているんです。何とかなりませんか。」
総務部長から、詳しく事情を聞き終わった左右田先生は、それからどこかに電話をかけて、その企業の横暴ぶりをやめてくれるように言った後、「あんたにも、ウサギのようなかわいい孫娘もいるだろう、月夜の晩ばかりではないよ。
皮を剥がれた赤兎のようになってしまったらかわいそうだよ、そうは思わんかね」と話したように聞こえました。
何故、いま因幡の白ウサギの話をするのであろうか、弁護士という人種は、変なことを言うものだと疑問でしたが、総務部長は、尋ねることをしませんでした。
この総務部長の会社の案件が、決着を見たのは、間もなくのことでした。
今回の交渉はで学ぶことは、まずは、敵地には絶対に一人では乗り込むなということです。
乗り込んでも良いのですが、敵陣に乗り込む時は友軍が必要です。次に大事なことは、脅かされても怯まなかったことです。
こちらは債務者側なのですからひたすら低姿勢で頼まなければなりません。
そして、正直だったことですね。
結局のところ、脅かす側が笑ってしまい、一気に交渉はこちら側の優位になりました。
これは幸田朗先生が言うように運も味方に付けたのですね。
交渉とは戦いでもあります。
戦いに運は付きものです。
運は努力なくしては付いてきません。
戦いの最中にも運があるかどうか見極めることも必要なのです。
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