下駄の台座と下駄の歯は別々のものです。
下駄の歯がすり減った時、この下駄の歯入れが上手に出来ないと、下駄が下駄の効用を為さず履物としては通用しません。
法律学は、この下駄の歯入れに似ています。
まず先に法律という台座があり、法律家はかくかくしかじかの現象、つまり事件という下駄の歯を、この台座(法律)にどうしたらきっちりとおさまるかを調べ、納めるのが仕事だからです。
目の前の現象は誰でもが体験し、人それぞれの見方や考え方は異なるでしょうが、現象をたがえることは出来ません。
法律という下駄の台座の解釈が、裁判官や行政官、権力や財力をもつ者、時の世論等々によって、その解釈が曲げられてしまったらどうでしょうか。
それは法の適用が曲げられてしまうということです。
近代法治国家は、権力をもつ者・財力をもつ者によって台座(法律)の姿かたちが変ってしまってはいけないのです。
西欧の人達は、法律を厳格無比に適用します。
権威や権力、財力、国民世論や裁判の相手方が誰であるかによってその適用を替えません。
下駄の歯入れが好きで得意な西欧人という訳です。
「一切の雑音にとらわれず雑念にまどわされず、いささかも法を曲解、拡大解釈することなく判断することを絶対の使命とするはずであり、司法権を持つ裁判官は立法権を持つ議会が作った法律を忠実に解釈するだけであって、その法律が間違っているかどうかとか、自分の主観や個人的判断を加えてはなら」ず、「裁判官は下駄の歯入れ役以上でも以下でもない」と主張した会田雄次京大名誉教授(昭和58年・1983年ボイス10月号)の主張も、裁判官の劣化によってその権威の重みがゆらいでいます。
四角い箱の中のものを丸く掬うことが重んじられるという事実は、裁判官の権威が揺らいでも、今なお厳然と存在するように思われます。
法よりも人情を重んじろということにもなり、警察や検察がお目こぼしをせよ、ということにもつながります。
これが、いわゆる大岡裁き、という奴です。
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