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老師(1)

一般には、出家した人のことを、お坊さん、住職さん、方丈さん、等々と呼びます。そこにはいくばくかの尊敬の念が込められています。

においては、指導者のことを「老師」と呼び、参者にとっては、当初は雲の上の人です。
自分達のうかがい知れない修行をし、「悟り」というものを知っており、我々一般人とは違う人達なのではないか、と頭の中であれこれ考えるからです。
僧という人は、どんな修行をしている人達なのだろう、という興味があります。

「秋の円覚寺には、細い時雨が音もなく降りそそいでいた。楽々庵という茶室は、その山中にあった。
一味の修行をしてしていたわたくしに藤沢寂仙老師が
『きみ、お茶の本当の名前は何かね』と問答をしかけてきた。
わたくしは、知らん顔をして、一心に点茶をして、老師に差し上げた。老師も黙然として、お茶を飲まれた。
わたくしは、すかさず、『老師、お茶の本当の名前は何ですか』と問い返してやった。老師は、グーッとお茶を飲みほして『やあ、うまい』といった(境野勝悟・道元「」の言
葉・知的生き方文庫101頁)。

これが、何故、境野老師のいわれるような茶一味の修行なのだろうか、ということが分からない。
禅の修行と一般日常生活とは別物である、と考えているからだ。ところが、在家の参禅者も老師からそのような問題を突きつけられる。
食事のあと、老師は参禅者に、「手も目も水も使わず、動かず皿を片付けよ」と食器類の片づけを仰せつけるらしい(井上希道・坐禅はこうするのだ・地涌社刊135頁)。
手足も目も水も使わず、体を動かさないでどうやって、片付けるのだろうか、と李すぐ理屈を考えてしまう。これが坐禅修行なのだろうか、と疑問をもってしまいがちです。

境野老師は、言います。
「『お茶の本当の名前』なんて、ありはしない。お茶の本当の名前、そんなことはどうでもよいことではないか。そんなことよりも、もっともっと大切なことは、お茶を飲んだら『うまい』と感ずる宇宙の生命と共生しているという事実だ」(同上書)
だったら、手も足も目も体を動かすとかどうかということは、どうでもよいことではないか。
食事のあとは、只、淡々と食器のあと片付けをしているという事実だ。
そのことを、老師は問うたのではないか。
禅の修行は、日常生活の中にもあるのだ、という事実を我々は見逃してしまう。それを老師と言われる方々は、教えてくれている。
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