私たち日本人は、幕末・維新期以来、科学技術のみならず社会科学の分野に至るまで西欧列強から学んできた。
昭和20(1945)年8月15日の敗戦後は、アメリカが占領国でもあり、圧倒的な強国でもあったことから、アメリカから多くの物事を学んだ。
戦前、孫子の兵法、クラウゼビッツの戦争論は知っていても、それを実践していた日本人は少なかろう。
なぜなら、「戦争」というものに勝つための方法論を考え、実際の戦争において活用することは稀だったからである。
すなわち、日本においては、戦国時代が終わっていたからである。兵法が重んじられたのは、風林火山を旗印とした武田信玄をはじめ、戦国大名によってである。
戦国武将の兵法や政治の師となったのは、禅僧たちだった(小和田哲男・戦国武将を育てた禅僧たち 新潮選書参照)。
しかし、時は移り明治時代となり、黒船来航以来西欧列強の圧倒的軍事力を目の当たりにして、日本人は西欧列強との戦争に負けないよう、また戦争に勝つための理論が必要になり、当時の普墺戦争(1866年・慶応2年)、普仏戦争(1870~1871年・明治3~4年)の勝利の立役者プロシアのモルトケ参謀総長の弟子のメッケル少佐を、明治18~21年(1885~1888年)の3年間、日本陸軍の陸軍大学の教官として招聘し、西洋流の戦略、戦術等の指導を受け、学んだ。
その結果、日清戦争(明治17~18年・1884~5年)、日露戦争(明治37~38年・1904~5年)に勝利したが、アメリカを中心とする連合国との戦争とに敗れた。戦後は、再軍備を禁じられた故もあり、戦争に勝つための理論が研究されることは多くなかった。
戦後、日本では欧米の戦略論を研究し、それを会社がライバルとの競争に勝つための会社経営に応用した。例えば、故田岡信夫氏がランチェスター戦略をとりいれて企業のコンサルティングをしたように。
考えてみれば、戦争とは国と国との意思のぶつかり合いであり、企業戦争と言われる如く企業間の競争も意思と意志とのそれである。戦争や戦いが、そういうものであれば、平時に、戦略論や軍事学を勉強し、応用することに何の差し支えもないだろう。というよりは、研究しない方が負けてしまうに違いない。
最近では、軍事学、地政学、戦略論等々の書物が、発刊されることが多くなった。そこで、弁護士が日常茶飯の仕事を行ってゆく上で、軍事戦略を学んでみたのが以下に記すところである。
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