小倉昌男は、大正13(1924)年12月、大和運輸の創業者小倉康臣の二男
(長男は幼少時に早世)として東京・代々木に生れた。
康臣が脳梗塞で倒れた後、専務だった昌男が実質的に経営の指揮をする立場になっていった。
宅急便は昭和51(1976)年にスタートし、初日の取扱個数は11個だった。
その宅急便事業は開始から5年で損益分岐点を超え、利益を出すことができた。
小倉昌男が社長から会長になったのは昭和62(1987)年、福祉財団を設置することを決意したのが、1993年。
小倉昌男は、物流業界を父親から引き継いだ。その得意先の中には百貨店の雄だった三越もあり、松下電器等もあった。
宅急便を始めてから、小倉社長はこれらの取引先との配送業務契約を打ち切ってしまった。
並みの人から見ると、何もそこまでやらなくてもいいのではないか、と思ったものだった。
今でこそ、津々浦々まで個人の荷物が運んでもらえる時代になった。
当時は、郵便小包でしか個人の荷物は運んでもらえなかった。地方から都会へ、都会から地方へと個人が荷物を
送ろうと思えば、荷物を郵便局へ持って行かなければならなかったものである。
まず荷物の集荷は街の酒屋さんに持っていったものだった。今では、宅急便屋さんが個人の住宅迄集めに来てくれる。
又、どこのコンビニでも宅急便の集荷起点になっている。
当時は官公庁の規制がきつく業界の競争も今ほど激しくはなかった。そんななかで、従前の業界にあきたらず、経営者としての一投を投じ、業界を変革し新たな事業を興したことばかりみるのでは、一人の経営者としての小倉昌男の人となりをとらえることができない、というのが森健氏の問題提起なのである。
すなわち、小倉昌男という社長の実像は、ライターとしての魂を揺さぶったのである。
それは、何故、殆どの私財を投じて福祉の世界に入ったのかという疑問だった。
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