1994年5月の連休明け、社長から呼び出され「社長をやって下さい」と告げられた。
「ああ、そうですか」と相づちを打ったら、承諾の返事と受け取られてしまった。
地所の歴代社長は総務部出身、ビル営業が長く、年齢も60歳を超えていた。
新社長としてやるべきことは、以下の通り明白であったからだ。
1.三菱地所が買収していた米ロックフェラー・グループの再建。
これは、米連邦破産法11条を使って立て直し。
2.総会屋への利益供与で商法違反に問われたいわゆる「海の家事件」。
総会屋の親族が開いていた海の家の利用料が総会屋への資金提供ルートとなり、
日本を代表する他の会社も連座した事件の解決。
3.虚礼の廃止
例えば、古くからの慣習だった取引先へのお歳暮やお中元の廃止の断行、
1997(昭和62)年は戦後日本のアンシャン・レジーム(旧体制)が崩壊した年だと思う、と述懐。
4.全社員が守る企業行動憲章の作成
三菱第4代社長岩崎小弥太が残した3綱領(所期奉公・処事光明・立業貿易)を基礎とした。
5.丸ビルの建て替え他
丸の内地区は、1890(明治23)年、三菱第2代社長岩崎弥之助が原野のような土地の払い下げを受けた。
有楽町から大手町まで含めると東京ドーム25個分、およそ
100棟のビルが立ち、うち三菱地所のビルが30棟ほど。
巨大なオフイス街だが、どこか古びて来ていた。
これが就任時の姿だった。
そこで、丸の内地区を新陳代謝すべく決断。丸ビルをはじめとするビルの建て替えが始まった。
現在でこそ、日本中いや世界中から観光客も見物にやって来るようになったが、
以前は古びたオフイス街そのものであり、人っ子一人通らず(というと言いすぎかもしれないが)、
土日の休日には閑古鳥が鳴いていた。
そのような地区の象徴的な丸ビルの建て替えを決断する等ということは、筆者にすれば
気が遠くなるようなことだ。
店子の移転、立替業者の選定等、どれをとっても難題ばかりだからである。
それよりも、社内外の先輩諸氏の反応は如何ばかりであったろうか?
しかし、会社全員一丸となってやり遂げた。「若手社員が中心となって『この店に入って欲しい』という相手に
出店をお願いして回った」(あの三菱地所の社員が頭を下げて頼むなんて考えられないー失礼!)し、
全部をオフイスの賃貸にしてくれ、という声は強かったというが、「そんな常識を打ち破ったのは、
創造性に富む若い社員達だった」という。
今では、音楽祭も開催されるようになったし、筆者も家族に連れられて、クリスマス・シーズンにライトアップされた
丸の内仲町通り商店街に行ったものである。
社長職は、丸ビル開業の一年前に退き、後任者にその地位を譲った。
現在、丸の内地区は、以前の森閑としたオフイス街から、生気がいれられ溌溂とした成熟した街になっている。
第2則 元三菱地所福澤武社長 3に続く
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